大山健治展「vision」
先週まで牧志の「gallery point-1」で行われていた
大山健治さんの展評を書きました。
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大山健治展「vision」
その雲の映像を見ていると、一畳程の空間はゆっくりと歪み、自分が一体どこにいるのかわからなくなった。私は今、ここに立ってその画面を見ている。いや、はたしてそうか。混乱し位置を確かめようと辺りを見回すと、左に山の等高線をなぞったものを見つけた。その線を目で追ううち、ふっと土の香りが鼻をかすめ、地に足がついたような気がしてほっとした。
牧志公設市場の近く、水上店舗2階にある那覇で一番小さなアートギャラリーで開催中の大山健治展「vision」は、大山が沖縄に戻ってからの初個展となる。東京芸術大学在学中は油絵を描いていたが、平面作品が置かれる空間や時間が気になり始めたという。現在は映像作品と、それが展示される空間を意識した作品を制作している。
新作「I Catch The Cloud」(2011)は青空に浮かぶ雲の固まりがゆっくりと消滅するまでを追った映像作品。極端にクローズアップされた空は、美しさと同時に違和感を映し出す。それぞれ異なる動きをする雲を目で追ううち、視点は定まらなくなり、果たして本当に雲なのかどうかさえわからなくなった。目眩を覚え地面が揺れるような錯覚と共に、目の前にあるものの不確かさから目をそらせなくなる。
3.11の激震は沖縄へも大きな“揺れ”をもたらした。ずっと続くと思っていた風景がとても脆いものであること、安全といわれているものに根拠がないこと、そのような実感が今まで眺めていた風景のあたりまえを揺るがし、個へ問いかける。この小さな部屋ではその揺らぎを体感することとなる。雲を掴むという試みはそれが儚く消えてしまうという意味においてはひたすら失敗し、それでも何度も繰り返される姿は痛々しくもあるが、その痛みを抱えてでも掴むという試みを続けるべきではないか。もう一つの作品「Mountain」(2011)はその思いを一層強くする。山の等高線をトレースすることで、揺らぐ地面を這ってでもしっかりと踏みしめるという意思が感じられる。
「Mountain」は映像作品ではないが、大山の映像作家としての空間の捉え方がよく現われた作品である。等高線のトレースは円形に縁取られている。大山はその理由を、山を上から見た視点なので縦の画面でも横の画面でもないし、どこが上でも下でもないからだと語った。俯瞰の視点からレンズでのぞいたような感覚である。その山は大山が一時期通っていた場所で、通ううちそれが一年前と同じ山なのかわからなくなったという。ここでも意識の微妙なズレを意識する。
それは私たちが普段観ている映像への問いかけへとつながっていく。映像は誰かの意志で切り取られたものである以上、どれもが作られた“嘘”であるともいえるが、殆どの場合それが本当の事だと思い込んでいる。大山はこの小さな空間に、映像を鑑賞者自身が作り上げる「編集室」を作ったのではないか。各々がこの2作品の関係性をどう編集するのかによって世界は全く別のものとなる。「vision」はそれぞれが思い描くのだ。
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